人間は加齢に伴い、記憶力や思考力が徐々に衰え、やがて認知症へと進行していきます。
認知症の約70%はアルツハイマー病によるもので、この病名は1906年にドイツの医師アルツハイマーが認知症患者を報告したことに由来しています。
世界保健機関(WHO)によると、現在世界でアルツハイマー病の患者数は約5,400万人にのぼり、2050年には1億3,000万人に達すると予測されています。
製薬会社にとっては、急成長が見込まれる巨大市場というわけです。
認知症は、アミロイドと呼ばれる物質が脳内に蓄積されることで進行し、10年ほどの時間をかけて悪化するという仮説が有力です。
フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究チームは、アミロイドが神経細胞の機能障害を引き起こす証拠を発見しました。
アミロイドの凝集体がニューロン同士をつなぐシナプスの機能を阻害し、最終的に機能を消失させることが確認されたのです。
アミロイドは時間と共に蓄積されていくため、初期の認知症を発症してから5年ほどで、日常生活が困難になるケースも少なくありません。
ただし、医学界では今もなお、アミロイドが脳内で凝集してプラークを形成することが認知症の直接的な原因なのかについて、議論が続いています。
原因がはっきりしていないことから、過去数十年にわたり、製薬大手が数百億ドル規模の研究開発投資をしてきたにもかかわらず、有効な治療薬はなかなか登場しませんでした。
実際、ファイザーは認知症治療薬の開発は困難と判断し、新薬開発から撤退しました。
そんな中、2023年1月8日、米食品医薬品局(FDA)はある認知症治療薬を「迅速承認(Accelerated Approval)」したと発表しました。
迅速承認とは、重篤な病気に対して有望な治療薬を早期に市場に導入するため、臨床試験の第2相・第3相の途中でも条件付きで使用を許可する制度です。
まず投与を開始し、その後十分な臨床データが集まり次第、正式承認に移行します。
この迅速承認を受けた治療薬が「レカネマブ(Lecanemab)」です。
レカネマブは、アメリカのバイオジェン(Biogen)と日本のエーザイが共同開発した薬です。
FDAはこの薬について、「アルツハイマー病の症状を緩和するだけでなく、病気の根本的なメカニズムに作用する最新の治療法である」と評価しました。
つまり、単なる対症療法にとどまらず、アルツハイマー病の原因そのものにも働きかける効果があるということです。
レカネマブは、アルツハイマー病の原因のひとつとされるアミロイドを脳から除去する作用があります。
この薬の第3相臨床試験の結果は、アミロイドβ仮説の有効性を裏付けるものであるとして、医療界でも注目されました。
とはいえ、上述のCNRSの論文などが存在するにもかかわらず、アミロイド仮説の正否については医学界で決着がついていません。
しかし、もしアミロイドの凝集を抑制することで治療効果が得られるのであれば、仮説が正しかったということになります。
それは、他の製薬会社の開発にも拍車をかける材料になります。
レカネマブは、初期の認知症患者1,795人を対象とした臨床試験において、プラセボ(偽薬)を投与された患者と比べて認知機能の低下を27%抑制したという結果が出ました。
価格は年間26,500ドルに設定されており、初期段階の認知症患者が対象です。
なお、レカネマブは「レケンビ(LEQEMBI)」という製品名で、2022年12月に日本で先行発売されています。
こうした中、レケンビよりも高い効果が示された新薬の臨床結果が発表されました。
それがイーライリリー(Eli Lilly)が開発した「ドナネマブ(Donanemab)」です。
レカネマブが認知機能低下を27%抑制したのに対し、ドナネマブは35%の抑制効果を示しました。
また、早期に投与を開始すればするほど効果が高いとされています。
初期段階の認知症患者においては、認知機能の低下を最大60%遅らせ、アルツハイマー病が次の段階に進行する確率を39%も下げたというデータもあります。
臨床試験を受けた患者のうち、47%はドナネマブ投与中に症状の進行が見られず、非投与群の約2倍の効果を示しました。
さらに、ドナネマブは月1回の注射で済むため、月2回の注射が必要なレカネマブに比べて利便性も高いです。
ドナネマブは2024年7月にFDAの承認を受け、「ケサンラ(Kisunla)」という商品名で市販されました。
レカネマブは、アミロイドが脳内で繊維状に変化し始める段階に作用するのに対し、
ドナネマブはアミロイドがプラークとして固まり始めた段階で効果を発揮するという違いがあります。
それぞれ作用機序が異なるため、初期患者にはレカネマブ、中等度以降の患者にはドナネマブというように、併用される可能性もあります。
ドナネマブの登場により、レカネマブ側も緊張感を強めています。
効果がより高く、注射回数も少ない競合薬が登場したからです。
レカネマブはドナネマブに比べて劣る点を利便性で補うべく、皮下注射型の製品開発を進めています。
現在、レカネマブもドナネマブも、病院で1時間ほどかけて点滴投与する必要がありますが、
レカネマブが皮下注射型として承認されれば、投与時間はわずか30秒に短縮されます。
さらに、バイオジェンは、自宅でオートインジェクターを用いて自己投与できるキットの開発も進めており、
すでに週1回の皮下注射型レカネマブの承認申請をFDAに提出しています。
製薬会社にとって、認知症治療薬は「金の卵を産むガチョウ」とも言えるものです。
病気を完治させる薬ではなく進行を遅らせる薬であるため、一度使い始めたら長期的に継続投与されることになるからです。
イーライリリーとバイオジェンによる認知症薬の競争が、最終的に価格の引き下げや治療環境の改善につながることを期待したいところです。